子供じゃないもん'17

生きるって超せつない

勝手だと分かって咲くから愛でる秋桜

 

 

自分勝手な人が好きだ。

自分勝手だと分かっている人が好きだ。

自分勝手だと分かっているから、謙虚に生きている人が好きだ。

 

 

ふたご座のあの人は言った

「自分勝手なだけだよ、自分がかわいくて仕方ないの」

そういうあなたは誰よりも自分と向き合った分、

人と一生懸命に向き合ってくれるじゃないか

 

空腹にしてはいけないあの子は言った

「自信がなさそうに、言葉を綴っている人が好きだ」

あなたに会うまではそうは思わなかったけれど

自信がないからこそ書き続けているのかもしれないと思った。

 

 

謙遜は、しすぎると対応に困られる。

自信過剰は、はいはいとあしらわれる。

自分の魅力を、誰かの魅力を、もっている素質の重み通り、

等質に扱ってあげたいのだけど、どうもうまくはいかない。

 

褒メラレモセズ、苦ニモサレズ、とは、そういうことなのかしら。

 

私が言いたかったのはね、人を傷つけたことさえ美化して

陶酔して表現した芸術は私は見たくないってことなんだ。

自分勝手だとも知らずにとってつけた飾りがついたくらいの言葉で、

自分に酔ったりするのは絶対にしない、これからも。

恥ずかしくて見ていられない。芸術ではない、私は許さない。

自分勝手だから言っとく、私がそれを許せない事、許してね

 

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歌人と呼ばれる女の子と食べたハヤシライスの写真を見返す。

私があなたに会いたいと思ったのは、

どこかで自分を許してもらいたかったからなのかもしれない、と考える。

実際、不思議なもので

彼女が書いた本を読んだ時とはまたちがう、けどどこか似ている

「許された」感覚があった。

だって帰り道にね、「ほくほく」という効果音が頭の中にあらわれて

ひとりで恥ずかしくなったくらいなのさ。驚いた。

 

私はずっと、言葉を綴る自分に蓋をしてきたのだなあと思った。

窮屈で真っ暗な空間の中で書き連ねたあれこれは

不相応に宝石をたくさんあしらった外側によって閉ざされていたんだと思う。

彼女に会って私は「本当はね」と蓋を開けて話し始めてた。

見つけて欲しかったんだ。許して欲しかったんだ、「書く私」の存在を。

本当は彼女のあれこれを聞くつもりで行ったのに、

私ってばさ、つい喋りすぎちゃったね。あはは

 

 

 

 

 

ばかやろうだけが愛される花火、だっけかな。

アウトローな俳句や短歌が好きだと言ったら、

彼女がぽつりと詠んでくれた。ソムリエだ、素敵だなと思った。

 

 

私のブログに彼女はブログで返してくれた。

返歌みたいですき。素直ですっと頭に情景が浮かぶ文章。

いつまでも憧れてしまうと思う。

そして彼女だけには、誰にも見せたことがなかった

「言葉を綴る私」を見て欲しいと思った。これははじめての気持ち。

 早速こうしてオレンジ色に塗りたての爪を乾かしがてら

ブログを書いているから、本当に面白いぐらい安直な自分に笑ってしまう。

 

 

 

敬老の日が来る。

母に急かされて祖父母に花を送れるように予約した。

こんなにもあっという間だから、9月に置いていかれそうだ。

秋桜には「謙虚」という花言葉があるらしい。

謙虚そうなツラしてるもんね、愛しいよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たまらない夜にしよう

 

 

久しぶりに更新したくなったのは、

このブログを見せたい人ができたから。

 

 

更新していないこの10ヶ月の間に、

たくさんの出会いとたくさんの刺激があった。

そして、自分の中にある各ジャンルの価値観が変化して

自分をとらえなおしてきた。

 

 

なんて言ったらかっこいいんだけどね、

実際のところは、悔しかったり怒ったり泣いたり

理不尽なことを言われてはしょぼくれたり、

本当にいろんなものにもみくちゃにされた日々だったの。

辛かったこともたくさんあったけど、ずいぶん変化を遂げたを遂げたことは確かだと思う。

 

それを経た今の私は「晴れ」だ。これは間違いない。

 

 

 

 

これ以上好きな人は現れないと思い込むほどに好きだった人のもとを離れた。

幾度もの失敗を重ねて、仕事をする上で大切にしたい考え方が見えてきた。

私は何が好きで、何が嫌いなのか。

何が得意で、何が苦手なのか。

未来を生きていく私に、今の私が託したいものは何か。

 

悩んで、走って、ぶつかって転んで、泣いて、また立ち上がって。

何もわからずただ突っ走っていた日々から、

「この人生も悪かないなぁ」と思えるくらいまで

世界を知ることができた。

まだまだ分からないことばかりだということが、わかってきた。

 

 

年を重ねるごとにわからないことが増えていく。

幼い頃は全てを知った気になっていたと、少しだけ恥ずかしくなる。

わからないことを、知りたいと思う気持ちがあること

それを知るために夢中になること、分かっていくことの気持ち良さが、好きだ。

そしてそれは人から与えられたものだけじゃなく、

自分の中で構築していく音を感じている。今の自分は、前より嫌いじゃない。

 

 

 

 

 

 

とにかく、ここ最近の私は機嫌がいい。

 

 

もちろん「嫌だな」「悲しい」「辛い」「苦しい」はある。

でも、おいしいものを食べてたっぷりと寝たら、大丈夫になる。

 

それに、全部を自分の成長の肥やしにしてやるう!という

可愛らしくないマインドが出来上がってきた気がする。

 

 

何より私は、人に会うことが好きすぎる。

みんなの生き方を知りたい。みんなの考え方を知りたい。

少しずつ教えてくれるみんなに、ありがとうって言って回りたい。

 

とんでもないハッピー野郎なので、むかつく人もいるかもしれない…

でも私は今の幸せを噛みしめたい!幸せだーーーーー!

 

 

 

 

 

人を好きになることを諦めていたのに、

つい最近、好きな人ができた、かもしれない。

いろいろ書いてきたけれど、実はこれがハッピーの8割を占めている。ごめん。

 

「それって『憧れ』と『恋愛』が混同していない?」と言われたら

そうなのかもしれないけれど

 

私は気になってい男性の星座や血液型占いを始めたら

すでに恋は始まっていると思うタチなので、好きだと言わせて。

 

 

それから仕事のことも社会のこともわかるようになってきて、

自分に嘘をつかずにうまくやれるようになってきた。

その他の部分でも。自分の好きなことを信じれるようになってきた。

 

 

 

満たされた、許された、そんな感覚でいる。

みんなのおかげ、自分のおかげ。ありがとう。頑張った。

 

 

 

 

 

今日はなんだか映画が見たい気分。

早く帰って寝よう。機嫌がいい私を楽しんであげよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

落下する夕方

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落下する夕方江國香織

 

 

「引っ越そうと思う」

 

 

その言葉からはじまり、その言葉でおわる物語。

美しかった。すべての情景が目の前に広がっていく。

 

どうして江國香織はいつも私をこんな気分にさせてくれるのだろう。

憂鬱とも、すっきりとも違う、もやもやでもなく、切ないでもない。

艶やかで、目には見えなくて名前もない少し気怠い、

熱くなくて冷えてもいない、何も変わらないのに、何かを確かに感じる

そんな不思議な感覚になる。どうしてだろう。

 

世間や人の目を気にして、誰にも言えないことが、感覚が

当たり前のようにそこに言葉として、整然と凜として並んでいる。

伝わってくるのはそこにある空気と、温度と、それから心の渦。

 

とても素敵で魅力的な表現が多く、

そのひとことへの思い入れが強くなる。

 

『おかえりなさい。

 子供が言うような言い方だった。私は胸が一杯になる。

 1ミリグラムの誤差もなく、言葉が正しい質量をもっていた。

 こんなに正しい重さの「おかえりなさい」をきいたのは、

 久しぶりのことだった。』

 

 

 

これを読んだら多くの人が”華子”のような女になりたいと願うだろう。 

華子の魅力はひとことでは説明できない。

放し飼いの猫のようでいて、何も知らない無邪気な子供のようで。

いつしか目が離せなくなっている。

次は何をしてくれるのか、目が離せなくなってしまう。

そして、華子に執着して「はたから見たら狂っている」ように

なっていく周りの人々。いたって普通に、狂っている。

それは誰もがそうなって当然かのように、

まるで夜が明けて朝日が昇り、夕暮れが過ぎてまた夜が来るように。

 

 

 

 

華子の最後の行動に対する「疑問」は不思議と浮かんでこなかった。

それはきっと、私がすでに物語の中に入り込んで

「華子ってそういう人なのよ」「華子だもの、そうなってもおかしくないわ」

なんて梨果や健吾のように華子を知ったような気になっていたからだと思う。

 

 

この物語の中に、「華子がなぜそうしたのか」ということは

一切書かれていない。それが心地いい。

知りたいと思わない。知らないままでいたい。

その余白が、さらに私を世界へと引き込んでいく。

 

 

 

大切な人を失うこと、それでも時は進み、生活はつづく。

いくら自分の心が、思考がストップしていても、世の中は動き続ける。

世界は不思議だ。なぜ人は自分の見えているものだけが世界だと

勘違いしてしまうのだろう。たくさんの世界が存在しているなんて、素敵だ。

 

 

 

 

特に印象に残った、あとがきをここに記しておく。

 

 

 

「心というのは不思議です。

 自分のものながら得体が知れなくて、ときどき怖くなるほどです。

 私の心は夕方にいちばん澄みます。それはたしかです。だから

 夕方の私がいちばん冷静で、大事なことはできるだけ夕方に

 決めるようにしています。

 私は冷静なものが好きです。冷静で、明晰で、しずかで、あかるくて、

 絶望しているものが好きです。そのような小説になっているといいなと

 思いながらこれを書きました。

 これは、すれちがう魂の物語です。すれちがう魂の、その一瞬の物語。

 そうしてまた、これは格好わるい心の物語でもあります。

 格好わるい心というのはたとえば未練や執着や惰性、そういうものにみちた愛情。

 子供のころ自転車に乗っていて、ころぶ数秒前には不思議な透明さで

 それを知っていました。ああもうすぐころぶなあ。そう思って、ちゃんと、ころんだ。

 夕方には、なにかそういう種類の透明な冷静さがあります。

 つきすすんでいく格好わるい心の上空に、しずかな夕方が広がりますように。」

 

 

 

仕事がえりにカフェに寄り、煙草を吸ってアイスラテを飲みながら

読後の不思議な世界にいた。

それが何か心地よく、時間はそれが持つであろう

正しい質量で刻まれていった。長くも、短くも感じなかった。

 

帰り道、小綺麗なマンションがあるいつもの角を曲がって

街灯に照らされた一方通行の道を反対に向かって歩く。

「丁寧に生きてみよう」そう思った。

きっと長くは続かないのだろうけど、とにかく今日は

お風呂を少し掃除して、肌をいつもより丁寧にケアしてみたりした。

 

今日はLUSHのアイムホームの香りをすこし纏って眠りにつこう。

 

 

 

明日起きたら洗濯物を干して、出張の準備をして

お手伝いするイベントのフェイスブックを更新しよう。

 

 

 

今日もありがとう。わたしは生きている。

そう思える文に出逢えてよかった。

 

 

 

原田知世SalyuCharaを聞いた。

さあ、おやすみなさい。